日本オリジナル競技「トリックスラローム」について

インラインスケートのスラロームのジャンルのひとつである「トリックスラローム」。
日本国内でのみ行われているこのトリックスラロームについて、当事者のインタビューや筆者自身が実際に見聞きしたことをもとに、競技誕生から現在に至るまでをまとめました。

トリックスラロームとは

競技名

まだクロスやワンフットなどの単純なスラローム技しかなかった1997年、梁川成都さんが試行錯誤の末にコンビネーション技(飛燕)を作り出しました。これはパイロン1つごとに異なる動きで通過していくもので、当時は発明との呼べるほど画期的なものでした。
この複雑な技を見た周りの人たちが、今までのスラロームとは異なるものだと考え、新たなジャンルとして名称を付けようということになりました。そして駒沢公園で滑っていた3人ほどが相談して、1998年に決まった名称が「トリックスラローム」でした。
このように「トリックスラローム」とは、もともとは飛燕のような複雑な動きをするスラロームを指していましたが、現在は80cm間隔がメインのフリースタイルスラロームに対して、1.5m間隔でスラロームをすることを指す場合が多くなっています。

パイロン間隔

インラインスケート登場以前のローラースケート(クワッド)の時代からスラロームはあり、その時代のパイロン(小さなコーン)を並べる間隔は1.2m、1.4m、1.6mのいずれかが多く、インラインスケートもそのパイロン間隔を引き継いでいました。
1997年にトリックスラロームの始祖である梁川成都さんが、駒沢公園でスラロームをし始めた時に1.45m間隔のマーキングを付けました。
翌1998年、駒沢公園でマーキングを付け直す際に、キリの良い1.5m間隔に変更したことが、トリックスラロームのパイロン間隔が1.5mとなる契機となりました。
そして日本各地から選手が集まってきた2003年の幕張カップ、続いて2004年から毎年開催(2020〜2021年はコロナ禍のため中止)されている光が丘カップでのマーキングが1.5mとなったのが決定的となり、トリックスラロームのパイロン間隔が1.5mとして定着することとなりました。

トリックスラローム技

トリックスラローム技と言っても、特に定義がある訳ではありません。
しいて言うならば、「1.5m間隔のパイロン間で基本技(パラレル、クロス、スネーク、ワンフット、オープンなど)をパイロン3個分以上繰り返さずに行う一連の動作」となるかと思います。
しかし実際には、スピード感のある流れの中で行ったり、ある程度腰を落とした状態から繰り出すことができるなど、「トリックスラロームらしさ」が求められます。また、フリースタイルスラロームと異なり、地面に手をついた技も認められています。
ちなみに、飛燕や大蛇などはもともとパイロン11個を使用するルーティンで、不知火は11個分だけでなく、1.5往復のルーティンの名称でした。しかし現在は、飛燕と大蛇はパイロン4個分、不知火はパイロン2個分の主な繰り返し部分を指すようになりました。

技名

梁川成都さんは、最初に作ったトリックスラロームのコンビネーション技に、海外の人にも日本発祥の技だということが分かるようにと、漢字を使用した名称を付けることにしました。そこで技の動きのイメージと合致する日本の戦闘機「飛燕(ひえん)」の名を、その技名としました。
そして梁川成都さんは自らがその後に考案した技にも「大蛇(おろち)」「不知火(しらぬい)」と漢字で命名していきます。
これに習って新しいトリックスラローム技やルーティンに名前を付ける際は、「昇龍」や「龍旋」などと漢字を使用することが多くなっていきますが、「しゃなり」や「テイルターン」など漢字にこだわらない技名もあります。
しかし、2005年を過ぎた頃から名前を付けることが廃れていき、現在は新たな技名やルーティン名が全国に広まることはなくなっています。

競技会(大会)

2000年に「Inline The Challenge 2000 in としまえん」(としまえん大会)が開催され、参加者の滑りに対して審査員が優劣を付けました。これがトリックスラロームが競技として扱われた最初の競技会となります。
その後、2003年10月に千葉の幕張海浜公園で村上和由さんが企画した競技会「幕張カップ」が開催されました。
この幕張カップのルールを元に、翌年の2004年4月に「光が丘カップ」が東京の光が丘公園で行われ、他のローカル(滑走場所)でも競技会が開催できるように、競技ルールや審査方法を明文化して残すようになりました。
その後も光が丘カップは毎年開催され、その度にルールや審査基準などの見直しを繰り返し、2010年頃からは現在とほぼ同じ競技ルールと審査方法で運用されています。
しかしながら、この光が丘カップのルールを用いて他のローカルで競技会が行われたことはほとんどなく、各ローカルや運営ごとにルールが作られています。

2005〜2010年頃には岡山のASPOや神奈川の新横浜公園など、各地でトリックスラロームの競技会が開催されていましたが、現在も定期的に開かれているのは東京の光が丘カップのみかと思われます。
その光が丘カップも近年では参加選手の数が減り続け、ピーク時の約半分となっています。

使用ブーツについて

ブーツの剛性が高い「スラロームブーツ」や「アーバンブーツ」に、68〜90mmサイズのウィール(車輪)を3〜4個付けたものが、トリックスラローム用のブーツとして使用されています。

ブーツ

トリックスラロームが登場した頃は「スラローム」や「アーバン」というブーツのジャンルがなかったため、フィットネスブーツやアグレッシブブーツなど、各自が自分好みのブーツを探して使用していました。
Salomonの「Crossmax」や「ST8」、Tecnica(2004年以降はRollerblade)の「Twister」、K2の「Velocity」などのブーツの人気が高かったです。

転機となったのは2005年。
韓国のMX(現Sebaskates)から世界初のスラローム用ブーツ「Seba High」と「Seba Low」が発売され、まもなくヨーロッパでもUniverskate(現Sebaskates)から色違いのSeba Highが発売されました。
そして2007年にUniverskateからフリースケート用ハードブーツの「FR」が発売されると、国内のUniverskateライダーたちがこれ履いてスラロームをしていたこともあり、このFRもスラローム向きのブーツという認識が広まりました。
こうしてソールの剛性が高くてスラロームがしやすい、Seba HighやFRでトリックスラロームをする人が爆発的に増えました。

現在もトリックスラロームには剛性の高いブーツが使用されていて、Sebaskates、FR Skates、Rollerblade、Powerslideなどのスラローム用ブーツやフリースケート用ブーツでトリックスラロームを楽しむ人が多いです。

ロッカリング

ウィールのセッティングは「ロッカリング」というものが好まれています。
ロッカリングとは、フレームの先頭と最後尾のウィールが真ん中のウィールより、2mm上がった状態で装着、あるいは直径が4mm小さいウィールを装着されていて、路面に接するウィールが常に2輪となるようにするセッティングです。
このロッカリングにすると安定感は下がりますが、旋回性がかなり向上し、より細かな動きが可能となるため、スラローム技がしやすくなります。

トリックスラロームの歴史

黎明期

1998年から始まったトリックスラロームは、東京の駒沢公園を中心に盛り上がっていきます。
梁川成都さんをはじめ、他の上級者の滑りを見たいと、駒沢公園のオリンピック記念塔の下にインラインスケーターが徐々に集まるようになりました。そして最盛期には、週末になると100人以上ものインラインスケーターが押しかけるほどになり、駒沢公園がトリックスラロームのメッカとなりました。
その人たちは「飛燕」「大蛇」「不知火」のコンビネーション技を真似ることから始まり、徐々にオリジナルのトリックスラローム技を作るようになりました。その中でも現在でも残っている有名なものとして、菅沼利浩さん考案の「鬼足」があります。
こうしてトリックスラローム技がだんだん広まり、全国各地の公園などでも飛燕などを滑る人が出てきて、その滑りを見た人がトリックスラロームを始めるという好循環で競技人口が増えていきました。

最盛期

2000年代に入ると、東京の光が丘公園、千葉の柏の葉公園、埼玉の所沢公園、大阪の長居公園、神戸のメリケンパーク、岡山のASPO、徳島の、小松島ステーションパーク福岡の大濠公園など、全国の公園で盛んにトリックスラロームが行われるようになっていきます。
それと同時に、梁川成都さんや他の上級者たちが駒沢公園で滑らなくなっていったこともあり、駒沢公園がトリックスラロームの中心ではなくなります。
代わって、動画が人気だったウェブサイトの運営者である、高梨健吾さんと潤子さん夫妻が滑る埼玉の彩湖・道満グリーンパークが、トリックスラロームの情報発信の中心となっていきます。オリジナルの技を考案して技名を付けることが流行ったのも、この高梨夫妻のウェブサイトの影響があったと思われます。

このようにYouTubeが普及する前からスケーターが個人でウェブサイトを開設し、そこにトリックスラロームの動画を掲載していきました。当時は320×240pxと小さなサイズの映像ばかりでしたが、こういった個人の活動も全国にトリックスラロームが広まる一助となりました。
その中でも2002年からKazu Moriさんが制作した動画の「ISSUE」シリーズは、滑りのかっこよさを伝えることにフォーカスした内容で、当時のトリックスラロームシーンに影響を与えました。さらには、このISSUEシリーズを見た韓国のインラインスケーターがスラロームを始め、2000年代における韓国でのフリースタイルスラロームのブームを作るきっかけのひとつにもなりました。

2005〜2010年頃はトリックスラロームの競技会や遠征が数多く行われ、様々なローカルで滑る人たちとの交流の場ともなっていました。そこでは新しい技や滑りのスタイルが他のローカルに伝播し、さらにそのローカルで発展するという良い循環が生まれていました。
また2005年開催の第2回の光が丘カップ以降、光が丘カップの最上位クラスの優勝者が、その年のトリックスラロームの日本一として扱われるようになっていきます。そして、その優勝者の滑りのスタイルや技が流行するなど、トリックスラロームに及ぼす影響も大きいものでした。

現在

日本国内で盛り上がっていたトリックスラロームですが、2000年頃から徐々に始まったインラインスケート業界全体の競技人口の減少に歯止めがかからず、トリックスラロームの競技人口も2008年頃をピークに減り始めました。
そして現在は、滑走禁止となる公園や地域が増え、トリックスラロームの技を基礎から理論的に教えられる指導者が少なりました。それに加えて、世界統一ルールのもとで競技会が開催されているフリースタイルスラロームが国内で台頭してきたこともあり、トリックスラロームを楽しむ場所は少なくなっています。

参考サイト